<コラム>ゲイジュツ鑑賞の意義について考えてみる | クラズユニック

Close

コラムCOLUMN

<コラム>ゲイジュツ鑑賞の意義について考えてみる

【英語科 許士 祐之進】

御大層なタイトルから始めたけれど、私は全くゲイジュツというものが分からないし、プロフィールを見て分かる通りこの予備校での美術を担当しているわけでもない。一般的に芸術鑑賞といえばクラシック音楽を聴いたり古典絵画を観たりといったところだろうけど、自分の財布からお金を出してそういったものをしたことがない。(ちなみにclassic:古典というものが直接芸術を意味するわけでは勿論ないが、新しい種類の作品や書籍を褒める言葉にinstant classicという形容が最近使われるそうだ。出てきてすぐ古典になる=世に出てからその先長く鑑賞されうる素晴らしい作品、ということらしい。)つまりは、そういった文化的な活動と縁の遠い人間がその価値について語ろうということだから、今回は芸術鑑賞というより、鑑賞という行為一般について思ったことを書くことにする。

少し前、テレビをつけたところジブリの「紅の豚」が偶然放送されていた。この作品を見たことがある方々は分かると思うが、中心となるイメージが「男の美学」とあって、まあキザったらしいセリフから始まって、意地を通したり作中の女性の気持ちをないがしろにしたりと、良さが理解できない人はとことん理解をできないそうだ。

そのとき一緒にいた数人の友人の中にはそういった描写についていけないというものもいた。ストーリーが進んでいくなか、一つの不可解なシーンを皮切りに、「このシーンの後ろの方でこの描写をすることで~」「ここで一瞬演技をおくことで表現してるのは~」など見所を説明し始めた。なんともまあ普通に考えればはた迷惑な行動だが、あまりに説明が見事だったのでそこにいた全員食いついてしまっていた。私はといえば、結局もう一度それらの名場面を見るためにネット配信に登録して見ることとなり、結果的に伏線や背景描写の数々から時代考察に至るまで楽しめる作品であった。

要は、作者の意図なんていうのは説明されなければ一生つかめないものも多いが、資料を使ってでも人の力を借りてでも解釈することができれば、更に楽しめることが増えたというわけだ。恐らく、鑑賞のポイントというのはここにある。普通に見ていたら気付かないものを見つけたり、理解できないものを理解したり、はたまたはそういったことをしようとすること自体に意義があるのではないだろうか。自分が理解できないものを「わけわからん」と捨て置けば、それだけ自分の世界の幅を狭めることになる。

そう考えてみれば世にある作品というのはその一見「わけわからん」ものの総体で、芸術作品はその代表格である。「わけわからん」と言いたくなるくらいの筆者の強烈な個性によって作りだされたゲイジュツを理解しようと鑑賞するのだから、それはもう大変な労力を要する。最終的に理解できるかどうか、それが正解かどうかは正直その人のもっている情報や教養に左右されることも多いが、そうやって理解しようとしてあれこれ頭を使ってみること自体が、成功率を高めることにつながる。実学に直接役に立たないように扱われることが多い芸術だが、理解できなさそうなものを理解しようという姿勢やそもそもの能力、そして自身の解釈を持つといったような、知的労働の素地を養うことに使うこともできるのではないだろうか。

そういった意味では上位医学部でも国語を出すところがあったり、私のような文系人間が数学を受験に使わなければならなかった理由と似ているところがあるのかもしれない。

ゲイジュツをゲイジュツのままにしない姿勢をこの先ももっていたいと感じる次第だ。

※ちなみにこの文章を書くにあたり、私大現代文で出題率の高いとある作家の文体をマネしてみました。誰か分かったらこっそり答えを伝えてください。

 


著者プロフィール

札幌光星中高一貫校卒、北海道教育大学札幌校教員養成課程卒、在学中カナダ・ブリティッシュコロンビア州立サイモンフレーザー大学に短期留学。北海道教育大学大学院高度教育実践課程修了。大学生時代から大手塾講師として人気を集め、大学院卒業後より当校英語科勤務。

コラム一覧へ >