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<コラム>行間の罠

【国語科主任 佐谷 健児】

国語というとどうも、行間を読み取る力とか、繊細な感受性とか、そういうイメージが先行してしまい、受験生も本文からあれこれ想像力をはたらかせようと頑張ったりします。ところが、実のところ、想像することよりは、「本文に書いてあること」と「本文に書いていないこと」または、「本文を読んで自分が想像したこと」を判別する力のほうが重要だったりします。

先日センター試験の過去問を解く機会があり、授業後に生徒から質問をもらいました。その本文は、古文の日記なのですが、内容の大意はこうです。

次の二十九日は亡き夫の十七回忌である。死を前にしたときの夫の嘆き、悲しみは道理だけれど、どうしようもなかった。自分は長生きしようとは思わなかったが、こうして十七回忌を迎えている。明日は私もどうなるのかわからないが、明日にならない今日のうちは、しみじみとする。このように自分の死を悲しむことは人間としての本当の心であって、臨終の時に悟ったようなことを言う人は、本心ではないことだよ。

というものでした。

設問は、『傍線部B「明日こそ知らね、暮れぬ間の今日はあはれなり」から筆者のどのような気持ちがうかがわれるか。その説明として最も適当なものを選べ。』というもので、傍線部を現代語訳すると「明日はわからないけれど、明日にならない今日のうちはしみじみする」となります。何が「しみじみ」するのかというと直前に「おのれ、今まであらむともおぼえざりしに、かうながらへてこの事にあへるも、」となっていて、「私は今日まで生きるだろうとは思わなかったけれど、こんなに長生きして、この十七回忌にあったのも」となっています。「うかがわれるか」などと書いてあるので、ついついアレコレ想像をめぐらせたくなりますが、ちょっと我慢して、さきほどの材料から、「長生きするとは思っていなかったのに夫の十七回忌をするほど長生きしたことに感慨を感じる」のである、などとまとめて、それに見合う選択肢を選べばよいわけです。実際には、「人の命のはかなさに思いをいたし、夫の十七回忌を迎えるまでよくぞ生きながらえたものだと感に堪えない気持ちで歳月の流れをかみしめている。」というのが正解でした。「かうながらへてこの事にあへる」が「夫の十七回忌を迎えるまでよくぞ生きながらえたものだ」といいかえられているわけです。

ところが質問してくれたかたは、「明日になれば気持ちが紛れるかもしれないと思いつつも、夫の十七回忌を終えた今日は、夫が亡くなった時の悲しみが蘇ってきて、やりきれなさを感じている。」という選択肢を捨てられないのだそうです。この選択肢では、傍線部直前にあった、「かうながらへてこの事にあへる」に対応するのが、「夫が亡くなった時の悲しみが蘇ってきて」になってしまいます。「かうながらへて」は「こんなに長生きして」であって別に「悲しみの蘇えり」ではありません。しかし、たいそう悲しんだ夫の死の十七回忌は「悲しみが蘇える」だろうと想像力が働いてしまい、いったんそう思ってしまうと、本文のあちらこちらの表現もそのことを暗示する内容に見えてきます。そうして傍線直前に明記してある「かうながらへて」もどこかにふっとんでしまったというわけでした。

入試問題の間違い選択肢というのは、こんなふうに意図的に解答者をミスリードします。解答者はいったんミスリードされると、それを暗示するような記述をつぎつぎに発見してしまい、明記された対応関係を見失うというわけなので、選択肢にはいる前に本文に従った仮の答を準備することが重要です。しかし、急いでいるとついつい準備不足のまま選択肢を読んで、そこから逆に本文にもどって解釈しようとしてしまい、かえって時間を消費した挙句、結局”出題者のワナ”にはまりこんでいってしまいます。

あらためて、誘導された思い込み、先入観とそれに基づく読み違いの恐ろしさを感じた次第ですが、勘違い、思い込みのせいでついつい間違えるというのは、私もひとのことはいえないとは思います。

行間を読むヒマがあったら、まず行を読め、忖度するまえに相手の言ってることをちゃんと聞け

日々是反省でした。


著者プロフィール

和歌山県立桐蔭高校卒、京都大学文学部卒。20年以上に渡り、個人指導から講座授業まで幅広く受験指導を行っている。現在、当校国語科主任。

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